葬祭業界が「義務的市場」と言われて久しいですね。
高齢になって しかたなく病気になり しかたなく病院に行って しかたなく入院して しかたなく手術をして しかたなく寝たきりになり しかたなく死んでしまって しかたなくお葬式をする こんな考え方が日本に定着したのはいつのころからなんでしょうか?
少なくとも医療技術が著しく発達した高度成長期以降は西洋の医学の考え方に侵され、「人の死=医学の敗北」と位置付けてこられたことは間違えありません。だから病院では亡くなった方を薄暗いごみ置き場が近くにあったりする裏口から送り出しているのです。 そして多くの日本人が物質的社会にしか目を向けなくなったのも一つの要因です。
戦後の日本国憲法や教育基本法からは「宗教」が切り離されて、宗教的な教育や道徳的な教育がほとんどされていません。だから目に見えない偉大な存在に気づくことができなくなってしまった日本人が多く育ってきたのです。 「人の死=肉体と魂の分離」と私が講演で話してもなかなかピンと来ていただける方は少ないようです。目には見えないけど絶対に存在する「魂の存在」についての勉強をしてこなかった日本人が多いからでしょうね。
「人間は肉体である」という考え方が最大の無知。「人間の本来は魂である」ということを理解できている人はどれだけいるのでしょうか?
(このことについては書ききれないので機会があればコラムにまた書かせていただきます)
また、通常に生活をしている我々の中に「死」を考えることがほとんどなくなってきてしまっています。今や人の死は病院等の特定の施設で発生し、葬儀会館等の特定の施設で葬儀が行われています。私が子供の頃は通学最中の道でも葬儀が行われていました。子供心に「誰かが死んだんや」「自分もいつか死ぬんや」と死が自分の身近なところにありました。
ところが今では死を遠ざけることばかりに動いてしまっている日本人。 (このことについてもまた詳しくは別の機会に書きます) こういったいろんな要因の中、「お葬式をしたら幸福をえることができるには」という取り組みをオフィスシオンではしてまいりました。お葬式をすることによって得られるものは数限りなくあります。いえ数えることができない素晴らしいものがあると言った方がいいでしょう。 最初に書いた「しかたなく」の考え方を「病理モデル」と位置付け、それに対して「幸福モデル」とはいったい何かを研究所を設けていろいろと研究してまいりました。
魂の存在。死後の世界。量子論。ポジティブ心理学などなど。 いろんなことを研究して「幸福モデルのお葬式」を作り上げてきました。 しかし、その「幸福モデル」はお葬式だけではなく我々の生活の中で常に必要なものではないのだろうかという思いから、この度「幸福モデル」だけを切り離した状態で研究を進めていくことにさせていただきます。 またこのことについての講演などもさせていただき、多くの方々に「幸福モデル」を知っていただければと思います。 このコラムは不定期に更新させていただきます。 私は40年近く葬祭ムラで暮らしていますので内容は葬儀の関係が多くなるかもしれませんがご容赦ください。
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