コラム

葬祭業の役割の変化

葬祭業が葬儀を執り行う時に必要とされてきたのは都市部と地方などで大きく違っています。また、同じ県でも同じ市でも地域によって違っています。
(ここでは私が体験してきた地域に絞らせていただきます)
極端な例は私が40年近く前に葬祭業界に入った時には三重県の四日市でも「葬儀はご本尊とご遺体と香炉があればできる」と言い張るお寺様がいました。また街場(戦前戦中からの旧四日市市内)と戦後に四日市に合併した地区と新興住宅地(昭和40年代から開発された地域)では大きな違いがありました。

・イの時代
もともとは葬具を販売するのが葬儀社の役割であり、町内の人がそれをリヤカーで買いに来て、実際の葬儀は町内の人がすべて取り仕切っているという時代がありました。火葬は地元の山のふもとにあるお墓に併設された火葬場での火葬でした。町内の人が日の番をして一晩かけて火葬していました。

・ロの時代
そんな中、街場や新興住宅地では自宅に祭壇を飾るのが葬儀社の仕事でした。トラックに荷物を積み込んで自宅にお伺いし、幕を張って日常の生活空間を葬儀の式場に変えてしまって葬儀をしていました。火葬は近代的な四日市市営の火葬場で火葬時間は2時間でできるというスタイルです。

(私が四日市の葬儀社に就職したのはちょうどイの時代とロの時代の割合が半々だったころです。)

・ハの時代
そして昭和の終わりの60年代に四日市にも葬儀会館ビジネスモデルがやってきました。葬儀社は一斉に自社専用の葬儀会館を建設してそこで葬儀が行われるようになりました。さながら葬祭業=旅館業いやホテル業になったのか?というイメージでした。

こうやってその時々に身を置いて40年近くの葬祭業の歴史を見ているとイの時代からロの時代へ、ロの時代からハの時代へと変化していく過程を見ることができました。
そのことが次の家族葬だらけの時代への変化の予測ができた材料となっていて、いち早く「家族葬専門葬儀社」を立ち上げれた根拠となっているのです。まだ世間では大きな葬儀会館で多くの人を集めて葬儀が行われていた1990年代に、先だって葬儀の小規模化、葬儀のプライベート化を研究していたのです。

では今後はどのようになっていくのか?
これが皆さん一番知りたいことでしょうね。
それは今、流行の「終活」という言葉についてどうなっていくのか?何が引き起こされるのか?を真剣に研究する必要があります。
まずキャッシュポイントで言えば葬儀社にとって「終活」という言葉よりも素直に「エンディングプラン」と言い換える方がいいのかもしれません。
「エンディング・プラン」は死(end)の1点にフォーカスするのではなく、まさに(ending)という線に視点を移すべきだと思います。「死に至るまでのプロセス」を対象にするべきです。更に「残りの今後の生き方」も考えていくのであればそれを面にまで広げなければなりません。心の持ち方と身の処し方を縦横としたマトリクスで取り組むテーマとなります。

近頃の終活ブームはどうしても動産不動産のようなお金にまつわる段取りの話ばかりに陥ってしまっているのですが、それだけでは決して素敵な終わりを迎えることができないと考えています。
この世に生まれてきて死ぬまでが一生と考えたり、「死んだら終わり」という言葉を平気で発しているうちはまだこの世での修業が足らないのでしょうね。
人は旅立つときには地位や名誉や財産など目に見えるものはすべて捨てて旅立たなくてはなりません。研ぎ澄まされた魂で旅立つのです。
だからこそ今は魂の研鑽が重要でそのことをしっかりと見つめていくことの提案をしていけるのがこれからの葬儀社の役割ではないかと考えています。

幸福モデルのお葬式はそんなスタッフたちの思いを持って執り行っています。

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