コラム

葬儀社の心が安心できる時

昨日はうちのスタッフの友人のお宅に葬儀の相談に行きました。
病院にお迎えに行ったときに病室に大人から赤ちゃんまで10人以上がいましたが、その光景を見た瞬間に私の中に安堵感が生まれてしまいました。
それはいったい何だったのか?
あとでいろいろと考えてみましたが、何より一番は多くの子や孫やひ孫に見送られた故人であることが私に安堵感をくれたのだと思います。
「この人はきっと命のバトンを次の世代に引き継いだのだ」と思えてしまったことです。

私が現場を走りまくっていた昭和の時代であればこういった光景が当たり前のことでした。病院の霊安室に10人以上、そして自宅へ帰ると町内も含めて30人ぐらいがそこにいるという光景です。たとえ深夜であっても自宅の玄関の戸や部屋のふすまなどもみんな取り除いて帰りを待ってくれている光景が当たり前のようにありました。

そしてそこにいる人たちは思い思いのことを口にしていて一見収拾がつかないようにみえますが、葬儀屋が話し始めるとキチンと話をきいて必要なことはすぐに行動にとりかかるというスタンスです。そこには「亡くなった方のお葬式をちゃんとしてあげたい」という共通の目的が存在していて、その目的に向けてみんなが動いているという状況です。

そういった光景が平成の30年間、葬儀会館ビジネスモデルになって完全に失われてしまいました。きっと葬儀会館ビジネスモデルはそういった本当はお葬式に確実に存在したパブリック的なことをどんどんと切り捨てて行ったんだと思います。今では病院にいる身内は多くても5人まで。病院から葬儀会館に直接行くので、病院でお別れした人は葬儀会館まで来ない。中には私どもだけで葬儀会館にお連れする。そういう光景がどんどんと増えています。

本当にこんなことでこの先の日本人は大丈夫なのか?
もともと家族葬なり直葬なりのスタイルは今の日本人の生態系から生まれたものなのでこれから先もどんどんと広がっていくことは間違えありません。
だからこそ、その生態系自体が間違っているのではないのか?と考えさせられてしまいました。

ご自宅の玄関には入りきらないほどの靴が並んでいる。けど誰かがキチンとみんなの靴を揃えて並べている。こんな光景が失われていってこの先の日本人はどうなっていくのでしょうか?

日本で初めて家族葬専門葬儀社を始めた私が考えていることですが「家族葬は決して参列する人数を制限するものではありません」「家族のように親しかった人はどんどんとご参列ください」。
こういうと家族葬の本質を研究しても来ずに、「家族葬」という名前だけに乗っかっている葬儀社は不思議に思ったり、「いやいや・・・」と反論が出始めます。
「では家族葬とみなさんがよく口にする一般葬との違いはなんですか?」「一般葬って何を持って一般ってなずけているんですか?」と質問してお答えがいただけないことがほとんどです。
(この答えについてはまた別の機会に書かせていただきます)

今では葬儀社の団体が躍起になって「葬儀の意味を知らせるんだ」などと一件単価下落防止のために張り切っていますが、もともとの葬儀の意味なんてそんなに単純なビジネス的に割り切れるものではありません。

葬儀社の仕事はモノを提供する仕事ではありません。「心・祈り・想い」を提供する仕事です。幸福モデルのお葬式は葬儀本来のカタチを大切にしていくことが最優先となっています。

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